日本生命CM「愛する人のために」のあざとさ

日本生命のCMに「愛する人のために」というシリーズがある。同社のCMライブラリのページで動画を見ることができる(※2010.5.28 リンク先変更)。(※2011.5.26 動画はなくなってしまったらしい) 映像の方にはいくつかパターンがあり、いずれも以下のナレーションが流れる

  保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、
  パソコンの便利さもありません。
  けれど目に見えぬこの商品には、
  人間の血が通っています。
  人間の未来への切ない望みが
  こめられています。
  愛情をお金であがなうことはできません。
  けれどお金に、
  愛情をこめることはできます、
  生命をふきこむことはできます。
  もし愛する人のために、
  お金が使われるのなら。

このCMを初めて見た時、ムカムカきてしまった。その後何度も目にしているが、そのたびにイライラする。最初の2行に対してである。

「保険」に「パソコンの便利さ」があるかというと、そんなものは運用によるのである。保険という「制度/サービス」とパソコンという「道具」を直接比べてみてもしょうがない。もっと言えば、顧客管理や金額のシミュレーションなど、保険業務にはコンピュータをバンバン使っているはずで、日本生命の保険には「パソコンの便利さ」があるんじゃないのか。そしてそれは保険のサービス向上に役立っているはずである。

そこをごまかして、保険というものが本質的に「パソコンの便利さがない素朴なもの」であるかのようなイメージを植えつけておき、「人間の血が通っている」に持っていくところにあざとさを感じるのである。

「ダイヤモンドの輝き」にしたって、保険自体は物ではないから、ダイヤモンドのように実際に輝くわけがない。当たり前の話である。一方、比喩的な意味では「保険はダイヤモンドのような輝きを持つすばらしいものだ」と感じる人もいるし、そうでないと感じる人もいるだろう。そこらへんをごまかして「ダイヤモンドという即物的なものより尊い」ような雰囲気を出そうとしているところがまたあざとい。

このナレーションの「けれど目に見えぬこの商品には、人間の血が通っています」以下の部分は理解できるし、保険というのはある意味「大切な人への思いやり」や「助け合い」を実現する手段だとも思う。でもそれを言うのにどうして「ダイヤモンドの輝き」や「パソコンの便利さ」との的外れな比較が出てくるのか。

このエントリを書こうと思ってWebを調べてみて、このナレーションが谷川俊太郎の作であることを初めて知った。谷川俊太郎といえば、国語の授業で詩を習ったり(「二十億光年の孤独」は印象深い)、「PEANUTS」(スヌーピーのマンガ)の日本語訳をやっていたり("Good grief!"というフレーズの訳し分けが興味深かった)、フォークソングの作詞をしていたりで、何かと親しみを感じていた詩人である。「鉄腕アトム」の主題歌の作詞も谷川俊太郎だった。

でも「愛する人のために」にはがっかりである。このCMについて、詩人が企業広告のナレーションを書いているということに反発している人もいるようだ。私はそのことにはあまり抵抗を感じないが、詩の内容自体が好きになれない。伝えようとするメッセージはいいし、CM映像の方も結構好きなのだが、最初の2行が全てを台無しにしているように思えるのである。