渡り廊下問題(1) 最適位置

私がよく出張で行くところには7階建てのビルが2つあり、それらの間で行き来が多く発生する。そのため渡り廊下が1つ、5階に設けられている。

その渡り廊下を渡りながら、ふと「これが5階にあるのは最適なのか?」という疑問が頭をもたげた。

渡り廊下を設けるのは、上の方の階にいる人が隣のビルへ行くのにいちいち1階まで降りなくてもいいようにするためだが、あまり上につけると真ん中あたりの階の人が不便になる。ちょっと考えると、1階→1階、2階→2階、...、7階→7階という同じ階同士の移動の場合、5階に渡り廊下があれば、どの階からでも渡り廊下までの移動を両側でそれぞれ2階分以内に抑えることができる(4階〜7階からの移動は5階の渡り廊下を使う、1・2階からは1階経由、3階からはどちらを使ってもOK)。「おお、だから5階に作ってあるのか」と思ったが、よく考えると6階に渡り廊下があってもこの条件は満たされる(4階〜7階からの移動は6階の渡り廊下を使う、1階〜3階からは1階経由)。

そこで、同じ階同士でない場合も含めた全ての移動の組み合わせに対する移動階数の合計を求めてみることにした。つまり、(1〜7階)→(1〜7階)の移動49通りに対する「1階と渡り廊下を使った2通りの移動のうちの少ない方の移動階数」の総和を求める、という計算を行う。

例えば3階→4階の移動で渡り廊下が5階にある場合、1階経由だと2つ下がって3つ上がるから移動階数5、5階経由だと2つ上がって1つ下がるから移動階数3。したがって少ない方の3を採用。これを49通りの移動パターン全てについて足すのである。

Perlで書いて計算してみたところ、渡り廊下の位置(1階にある場合=渡り廊下がない場合も含む)に対する移動総数は以下のようになった。

渡り廊下の階 移動総数 平均移動階数
1(なし) 294 6
2 222 4.53
3 174 3.55
4 148 3.02
5 142 2.90
6 154 3.14
7 182 3.71

移動総数は5階が最小。やはり5階が最適だった。渡り廊下がない場合に比べ半分以下となり、平均移動階数も3を切っている。5階の次に優秀なのは6階ではなく4階である。

これで5階の渡り廊下をすがすがしい気分で利用できるようになったが、7階建てでないときのことも調べてみたくなる。2つのビルは同じ階数だとして、いろんな階数に対する最適な渡り廊下の位置は以下のようになる。

ビル階数 最適階 比率(最適階/階数)
2 2 1
3 2 0.667
4 3 0.750
5 4 0.800
6 4 0.667
7 5 0.714
8 5 0.625
9 6 0.667
10 7 0.700
20 12 0.600
30 18 0.600
40 24 0.600
50 30 0.600
100 59 0.590
200 118 0.590
300 176 0.587
400 235 0.588
500 294 0.588
1000 586 0.586
2000 1172 0.586
3000 1758 0.586

どうやら、階数が十分大きいときの渡り廊下の最適位置はその0.586倍付近になりそうである。階数を無限大に持っていったときの比率の極限値は正確にはどうなるのだろう。こういう極限値にはe(自然対数の底)が出てくることが多いが、この場合もeを使った式になるのだろうか。また、2つのビルの階数が異なる場合の最適位置とか、渡り廊下を2つ以上設ける場合のことについても考えてみるとおもしろいかもしれない。

(つづく)

運転中の携帯電話

以前自転車通勤していたころ、横断歩道を青信号で渡る時に横から曲がってくる車が突っ込んできてドキッとすることが時々あった。その時に運転手を見ると、かなりの確率で携帯電話で通話していた。

運転中の携帯電話の使用は2004年11月1日から法律で禁止されている。私も運転しながら通話したことが何度かあったが、注意力が散漫になってかなり危ない。なんというか、意識が回線の向こうの通話相手の方に飛んでしまうのである。

同乗者と話をするのに比べて運転中に携帯電話で通話するとなぜ危険なのかについて、大脳生理学的・人間工学的に明確な結論が出ているのだろうと思っていたが、検索してみるときちんと書いているサイトが見当たらなかった。以下のようなページは見つけたが。

われわれは、当実験結果から次のような推論をしている。まず自動車内では携帯電話の音声がひんぱんに途切れる(未発表データ)。音声が途切れると右頭頂葉が過渡的に活動する。それで聴覚的注意の資源が浪費される。自動車運転には視覚を主に用いるが、聴覚的注意も必要である。したがって音声の途切れが自動車運転を危なくさせる多くの原因のうちの1つになるであろう。

音声の途切れがひきおこす脳活動

「原因のうちの1つ」と書いているからそれだけではないとは言っているのだろうが、なんか違うと思うなあ。音声の途切れなんてそんなに感じないし、途切れなくても「意識が向こうに飛ぶ」ことによって危険な状態になっていると思うのである。そこを解明してほしいのだが。
そして、こんなことを主張しているページもあった。

そこで登場する優れものが「ハンズフリー装置」です。
実はこの法律には盲点というかポイントがあって「携帯を手でもって」というのが基本条件となっているのです。言い換えれば「携帯を手に持たない通話はOK」ということになります。
実際、警察庁のウェブサイト上でも「ハンズフリー装置を併用している携帯電話については…中略…規制の対象とはならない」との見解が掲載されています。

合法的に運転中でも携帯電話を使う方法が存在した!◆運転中の携帯利用で罰金は払うな(2/2)

道路交通法で禁止されているのは「運転中に携帯電話等を手でもって、通話のために使用したり、画像を注視する行為」であり、携帯電話を手で持たないハンズフリー装置を使えば違法にならないからハンズフリーで使いましょうという主旨だが、賛成できない。ハンズフリーでも携帯電話を耳に当てている場合に近いぐらい「意識が飛ぶ」ので危ないと思うのである。そこのところをきちんと検証せず、危険なことをさも解決策であるかのように書いてほしくない。同じ記事で

今回の法改正による罰則強化は、あくまで運転中の事故を防止するものです。運転中にハンズフリー装置を装着していて事故ったり…などというのでは本末転倒です。運転中に携帯電話を使うのであれば、罰金を払わない(捕まらないようにする)のはもちろんのこと、どうしたら安全に通話ができるかを考えて、時には車を止めて通話するなどしてケータイを便利に利用してください。

同上

とフォローしているが、「もちろんのこと」なのは「罰金を払わない」ことではなくて安全運転の方じゃないのか。

こんな記事もある。

IIHSの副会長でこの論文の執筆者の1人でもあるアン・マッカート氏は次のように話した。「ハンズフリーならそれほど気をとられないので、携帯電話を手に持って話すほど危険ではないと思われている。ところがわれわれの調査から、どちらの形でも危険であることがわかった」

運転中の携帯電話、ハンズフリーでも危険大

ほらほら、やっぱりハンズフリーでも危険ではないか。

携帯電話で話しながら運転すると危ないのは、我々の脳が通話先の相手を自分のまわりの環境の一部だと見なせないからだと思う。つまり、同乗者であれば自分が運転している車や道路と同じ環境の中にいると見なせるから、そこからの話し声を聞いて応対することと道路の状況に応じて車を操作することとを同時に処理することができる。しかし電話の向こうの声は自分のいる環境とは違うところから来ていると見なしてしまうので同時にきちんと処理することができなくなるのではないか。これが正しければ、ハンズフリーで通話していても電話である限り相手は別の環境にいると見なされるであろうから、やはり危険だということになりそうな気がする。このあたりを誰か大脳生理学的に解明していないものか。

Genographic Projectの分析結果

私のDNAの分析結果が出た。「Genographic Projectに参加」で書いたように、家族からの誕生日プレゼントとしてGenographic Projectに参加し、私の細胞のサンプル(頬の内側から採取)を送って分析してもらっていたのだが、Webで自分のIDを入力すると結果が見られるようになった。サンプルを発送してから49日。ちょうど7週間かかっている。

それによると私のY染色体は、M175と呼ばれる遺伝子マーカーによって定義されるHaplogroup O(オー)に属するらしい。haplogroupというのは、染色体中の遺伝子の組み合わせ(haplotype)によって特徴づけられる血統のグループといったところ。

このHaplogroup Oは東アジア(日本、南北朝鮮、中国など)に特徴的な血統で、東アジア人の80〜90%はこの血統に属する。そして西アジアにはほとんど存在せず、ヨーロッパには1人もいない血統である。

人類発祥の地であるアフリカ東部からM175(Haplogroup O)に至るまでの移住経路は図の通り(遺伝子マーカーの名前は私が挿入した)。以下のような順序で派生していったらしい。

  1. M168: 約60000年前にアフリカ大陸から移住し始めた人たちの血統。アフリカ以外で現存する血統は全てこのM168血統の子孫。「ユーラシアン・アダム」と呼ばれる1人のアフリカ人男性にさかのぼる
  2. M89: 約45000年前に北アフリカか中東でM168から発生。非アフリカ人の90〜95%はこの血統の子孫
  3. M9: 約40000年前にイランか中央アジア南部でM89から発生。北半球のほとんどの人はこのマーカーを持つ
  4. M175: 初期のM9血統のシベリア人から発生。約35000年前にシベリア南部を横断して東アジアに到達したあと氷河時代がピークに達して孤立したため、東アジアに特徴的な血統となっている

これはY染色体だけの分析結果だが、少なくとも私の父親父親父親の... をたどるとこういう移住経路になると思われるということである。

別の文献によると、日本人の中のHaplogroup Oの割合は約50%である。東南アジアから北上して日本に渡ってきたHaplogroup C(M130), D(M174)の人たちがかなり存在するため、日本では他の東アジアの国よりHaplogroup Oの割合が小さくなるようである。

今回注目していたことの1つとして、私が酒を飲めないこととの関係が何かわかるかどうかというのがあった。以前「下戸の系譜(1), (2)」でも書いたが、下戸の遺伝子は北部シベリアで発生した新モンゴロイドと呼ばれる人たちが持っていたと言われている。彼らは朝鮮半島を通って日本に渡来した、いわゆる弥生人である。M175もシベリアで発生したとのことであり、どうやらこれが新モンゴロイドの血統らしい。対してHaplogroup C, Dが古モンゴロイド(縄文人)に対応するのだと思う。私は新モンゴロイドの血統に属し、祖先の中に酒に弱い遺伝子を持った人がいたということだろう。

このプロジェクトの存在を知ったLife is beautifulのエントリを見ると、ブログ主の中島さんは遺伝子マーカーM122で特徴づけられるHaplogroup O3(Oの派生)に属するらしい。私の方はその前のM175で止まっていて、M122には派生していない。M122は稲作技術を発明した人たちの血統で、これは新モンゴロイドが稲作技術を日本に伝えたと言われていることとも一致する。それにしても、米を栽培して食べ始めた人たちの遺伝子マーカーが見つからずにその前で止まっているなんて、rice-addictの名がすたるではないか。なんかくやしい。

責任をとるということ(補足)

id:himazublogさんからコメントをいただいたのでそれを引用しつつ、考えたことを書いてみる。

何かに対して「責任を持つ」ことと、起こったことに対して「責任を取る」ことは分けて考えてはどうでしょうか。責任を持つ事柄がうまくいなかなければ責任を取ることにはなりますが、責任を持っていないことについても責任を取ることがあるからです。花瓶を壊した責任を取ることがこれに当たります。花瓶の持ち主でない人は花瓶に対して責任を持っているとは言えませんから。
「責任を持つ」を以下のように定義してはどうかと思います。「あることがらに責任を持つとは、そのことがらが最もよい状態とする義務を負うことである。そして、その事柄から悪いことが生じた場合は、それを除くあるいは最小限にする義務を負うことである。」

確かに「責任を持つ」と「責任をとる」は別である。前回のエントリで引用した「議論のしかた: 4.3. 責任とは何か」には両方出てくるが、「○○に対して責任を持つ」の方を「○○の評価を上げるような行動をしなければならないこと」と定義している。そのあとに書かれていることと合わせると、「○○の評価を上げるような行動を常に行っていなければならないこと」という意味だと思う。これはid:himazublogさんの定義とほぼ同じ意味になりそうだが、○○の状態がよいかどうかを判断するのは自分ではなく相手であることに注意しておく必要がある(だから「評価」という言葉を使う)。それを元に私の方は「△△の責任をとる」の方を「△△の評価を上げるように最大限の努力をする」と定義してみた。以上の中で、○○は「会社」のような「もの」、△△は「花瓶を割った」のような「起こったこと」である。

これらを合わせると、

  • 「○○に責任を持つ」=「○○に何が起こってもその責任をとらなければならない」

という関係があると思う。上記コメントにある通り、責任を持っていないものに対して起こったことについて責任をとらなければならないこともある。

交通事故の責任については、運転手が運転に責任を持つことから出発します。運転手は運転が最も良い状態となる義務を負い(主に安全運転)、交通事故を起こした(責任を持つことがらから悪いことが起こった)場合は、その悪いことを最小限にする義務を負う、と考えるのです。
花瓶を壊した責任については、人は自らの行動に責任を持つことから出発します。

「人は自らの行動に責任を持つことから出発する」というのはわかりやすい。してみると、以下のように言えるかもしれない。

  1. 人は(責任を要求される年齢になると)まず自らの行動に責任を持つ
    = 自らの行動によって起こった全てのことについて責任をとらなければならない
    = 自らの行動によって起こった全てのことに対し、評価を上げるように最大限の努力をしなければならない
  2. 加えて地位や役割に応じて、「自らの行動」以外のものにも責任を持つようになる
    = そのものに起こった全てのことに対し、評価を上げるように最大限の努力をしなければならない

2.は例えば社長にとっての会社である。社長は会社に何かが起こったら、それが自らの行動によるものでないこと(ヒラ社員がヘマをやって損失を出したとか、地震で社屋が倒壊したとか)であっても会社の評価を上げるように努力しないといけないわけである。同様に、親は子供の行動に(少なくとも子供が一人前になるまでは)責任を持たなければならないだろう。

前回のエントリについてもう1つ補足。「議員を辞職するという不利益をこうむるだけでは単なる処罰である」という意味のことを書いた。処罰を受けることは責任をとることにすぐにはつながらない。例えば犯罪者が処罰されるのは「犯罪を犯したことに対して評価を上げるための本人の努力」ではなく、他者が決めて執行することである。

一方、処罰を受けることを自分の意志で選択することは、それが相手の評価を上げることにつながるなら「責任をとる」ことの一手段にはなりうる。ただし議員の辞職の場合は、「辞めるという不利益をこうむってくれたのだからよしとしよう」としてはいけない(辞職したということだけで評価を上げてはいけない)と思うのである。

責任をとるということ

最近の偽メール問題でもそうだが、何か問題が起こると「問題を起こした人が責任をとって辞めるかどうか」ということがよく話題になる。

「責任をとる」とか「責任を持つ」の意味するところについて、昔からどうも釈然としないものを感じていた。自分の言動に責任を持たなければ/とらなければいけないとは(その定義がはっきりしないまま)思っているが、では個々の問題について何をしたら責任をとったことになるのかと言われると難しい。「辞めたら責任をとったことになるのか?」「過失で人を死なせてしまったとして、責任をとるといっても、いくらがんばったって死んだ人は帰ってこないんじゃないの?」というやつである。

iwatamさんのサイトに「議論のしかた」という文章がある。まだ部分的にしか読んでいないが、おそろしく論理的に整理されている。その中に「責任とは何か」という節がある。

...「○○に対して責任を持つ」というのは、○○の評価を上げるような行動をしなければならない、ということです。例えそれが自分の利益と相反していても、です。
例えば社長は会社に対して責任があります。社長は会社の評価を上げるように努力しなければなりません。それは利益の出る会社にするために経営計画を見直すことだったり、自分より優秀な人を社長に据えて自分は社長を辞める事だったりします。しかし責任のないヒラ社員はたとえ会社の社会的評価が低くても「それを上げるために自分の利益を犠牲にして何かしなくてはならない」とは要求されません。ヒラ社員が責任を持つのは自分の仕事だけですから、自分の仕事さえうまく行っていれば会社は傾いていても文句は言われません。それは自分の責任ではないのですから。
では「交通事故の責任をとる」というのはどうでしょう?これも同様に「交通事故の評価を少しでも良くするために何かする」ということです。「交通事故をして良かった」という評価に戻すことは普通はできないでしょう。しかし、良い評価に少しでも近づくために何かすることはできます。それはお金を払うことだったり、謝りに行くことだったりします。このようにして交通事故に対する被害者の悲しみを軽減させる事が交通事故の責任をとるということなのです。

議論のしかた: 4.3. 責任とは何か

なるほど、すると「○○の責任をとる」=「○○の評価を上げるよう最大限の努力をする」と定義すればかなりすっきりする。

別の例を挙げると、他人の花瓶を割ってしまったとする。その責任をとるというのは、「花瓶を割ったことの評価を上げるよう最大限の努力をする」ことである。というとわかりにくいが、要するに「花瓶を割られたけど、□□してくれたからいい」と相手に思われるような□□をするように努めるということである。□□としては、例えば「こぼれた水を拭いて割った花瓶を片づけ、同じ(ような)花瓶を買って置き換える」という行為が有力である。

ここで注意しないといけないのは、「□□してくれたからいい」かどうか、最大限の努力をしたかどうかを評価するのはあくまで花瓶を割られた人であって、割った自分ではないということである。例えば割れた花瓶が親の形見だったら、片づけて同じような花瓶を買うだけでは「いい」と評価してくれないかもしれない。たとえ安物であっても形見の花瓶は世界に1つしかなかったもので、もう戻すことはできないから、代わりにより高価な花瓶を買うとか別途金を払うとか、あるいは「深く謝る」とか、とにかく相手に「いい」と思ってもらうための努力が普通の花瓶より余計に必要になるかもしれない。

「問題を起こした人が責任をとって辞めるべきかどうか」について考えると、辞めることが「□□してくれたからいい」の□□につながるのかどうかが判断基準である。辞めるというのなら、議員なら議員というポストに対して自分以外の人を置いてその評価を上げることを目的とすべきである。上記の引用の中の「自分より優秀な人を社長に据えて自分は社長を辞める」という例のように。

いつも釈然としないものを感じていたのは、「辞めるという不利益をこうむることにより責任をとる」というトーンが見えるからである。議員の仕事を評価する側(支持者、有権者、党員など)からすれば、「問題を起こして迷惑をかけられたけど、議員を辞職するという不利益をこうむってくれたからいい」という評価には普通はならないだろう。それでは単なる処罰である。「迷惑をかけられたけど、辞めて他の人がもっとちゃんとやってくれたからいい」となるべきである。責任と辞任の関係はそういう目で見ないといけないと思うのだが。そして、新しくそのポジションに就いた人がちゃんとやるかどうかまで監視しないと評価は終わらないのである。

「ランキングサイトへのクリック」考

ブログ記事の最後に「おもしろいと思ったらクリックお願いします」という、ランキングサイトへのリンクがついていることがよくある。私がいつも読んでいるいくつかのブログでも毎回挿入されているが、まずクリックしない。ランキングサイトというのはどんなものかを見るためにクリックしたことが2、3度あっただけである。

アフェリエイトは自分のブログでもやっているしGoogle Adsenseも最近始めたが、たとえ何かの間違いで自分のブログの人気が出てきたとしても、ランキングサイトに登録して「クリックを!」とやる気には全くなれない。

これについて今まで深く考えたことがなかったが、以下のエントリを読んでだいぶ整理がついた。

 まず、ランキング利用者が増えるとうれしいのは誰か。ランキングサイト運営者である。アクセスが増え、広告クリックが増えるだろう。もっとも、ランキングが乱立すると「ランキングのランキング」とかも出てきてわけがわからなくなっていくのだが。
 ランキングで上位にくるとうれしいのは誰か。サイトオーナーである。ランキングサイトからアクセスも流入してくる(もっとも、それはランキングサイトに登録している他の人たちがぐるぐる回っているだけなのだが)。
 ランキングで負担を強いられるのは誰か。クリックさせられる読者である。

「ランキングサイト」が大嫌いな理由 [絵文録ことのは]2006/03/04

私がランキングサイト(へのクリック)に消極的なのは、「読み手の自由を阻害するから」である。それがブログの精神に反するように思うのである。

ブログというのは、「最低限のルールを守る限り、誰でも自由に自分の文章を発表できて自由にコミュニケーションできる場」を目指すものだと思う。ほとんどのブログは無料で書けるし、コミュニケーションのためのPermalinkやコメントやトラックバックといったしくみもある。最低限のルールというのは、法律を守るとか公序良俗に反することを書かないとか他人とのやりとりの際のマナーといったことである。

そして、読む方については実質的に何の制限もないはずである。アクセス攻撃でサーバの負荷を異常に高くするというような特殊なことをしない限り、どんなブログをどう読むかは全くの自由である。

ところが「おもしろかったらクリックを」とやるのは「読んでおもしろかったからクリックしないといけないんじゃないか」という余計なプレッシャーを与え、クリックの手間をかけさせる。それだけで「読むだけなら全く自由」を侵害している。

その割には、書き手が読み手のクリックによる利益(収入であれ、「励み」であれ)を実際にどの程度期待しているのかはよくわからない。いっそのこと「クリックしないなら読まないでください」というのなら(そういうブログは私は読まないと思うけど)それはそれで潔いが。

上記のエントリで、ランキングサイトへのクリックを大道芸人への投げ銭と比較されているのはわかりやすい。大道芸人は芸を見せることによって金銭を得ようとしているという暗黙の了解があると思うので、芸を見ておもしろかったと思ったらいくらか入れることに抵抗はないし、そういう心構えで見ようとするが、ブログはそうではないと思うのである。そもそも投げ銭と違い、クリックすることが必ずしも書き手の利益につながるとは限らない。

同じエントリの中に以下の記述がある。

 ランキングなりコメントなり、毎日目に見える形で励まされないとやる気をなくす、というのでは、飽きっぽい現代人のステロタイプを演じすぎである。「たとえ反響がなくても、数ヶ月かけていいブログを組み上げるんだ」というくらいの気持ちでやってみたらどうだろうか。それは、きっとどこかで誰かが見ている。

強制できることではないし、「クリックお願いします」と書いている人がみんな「毎日目に見える形で励まされないとやる気をなくす」というわけでもないと思うが、「たとえ反響がなくても、数ヶ月かけて(あるいはもっとかけてでも)いいブログを組み上げるんだ」という気持ちは持っていたいものである。ブログというのは1つ1つのエントリで組み上がっていくものだから。もちろん、「反響なんてどうでもいいから自分の好きなことを書いていたい」というのもアリである。

Genographic Projectに参加

今日は誕生日。ほしいものがないという話をメモブログに以前書いたが、やっとほしいものが見つかったので、家族からの誕生日プレゼントはそれにしてもらうことにした。といっても、ほしいものは正確には「物」ではない。

Life is beautifulの「DNA マーカー『M122』を持つ人は、お米が大好き!?」というエントリでGenographic Projectが紹介されていた。自分の体の細胞を採取して送ると、DNAを分析し、祖先の軌跡を教えてくれるというもの。人類はアフリカ東部で発祥したと考えられており、そこからどう移住してきたかがわかる。

といってもいろんな遺伝子の交配がなされて今の自分があるはずだが、このプロジェクトでは男の場合はY染色体の祖先をたどっていく。人間の性別を決める染色体ペアは男の場合XY、女の場合XXとなるが、このXYのうちのY染色体(父親から息子に伝えられる)を調べるのである。私の父親父親父親の...がどこからどうやって来たかがわかるはず。女性の場合はミトコンドリアDNAを分析するらしい。人間の細胞内のミトコンドリアには特別なDNAがあって、母親からだけ子供に伝わる。したがってこのDNAの分布を調べると母親の母親の母親の...の移住経路をたどることができる。この調査によって人類発祥の地がアフリカであることがわかった。いわゆるミトコンドリア・イブである。

Genographic Projectの日本語説明ページから検査キットを申し込んだ。分析手数料と送料込みで$126.5はかなり痛いが。キットは1週間もせずに送られてきた。中にある歯ブラシのようなもので頬の内側を1分ぐらいこすって粘膜の細胞を採取する。別に痛いことはない。これを8時間以上の間隔をおいて2回。添付の説明DVDで「強くこすってください」と言っていたので執拗にこすったら、口の中が荒れていたこともあって1回目は血がついてしまった。2回目はそうならないように慎重に強さを調節して大丈夫だった。念のためあとでメールで問い合わせてみたら、「少し血がついたぐらいなら細胞は採取できるから大丈夫でしょう」とのこと。万一検査が成功しなかった場合は申告すればやり直しのキットを無料で送ってくれるらしい。

2つの標本を、性別を記入した同意書とともにプロジェクトに返送すればOK。住所や名前は書かない。プライバシーも考慮して個人はキットに付与されたIDのみで識別され、プロジェクトのページでIDを入力すれば経過や分析結果が見られる。

マクロビオティックのブログの方で「下戸の系譜(1), (2)」という話を書いたことがある。酒の飲めない私は、北部シベリアの方から渡来してきた新モンゴロイドが持っていたALDH2不活性型(低濃度向けアセトアルデヒド分解酵素が働かない)の遺伝子を受け継いでいるはずである。それが結果に現れるかどうか?

また、Life is beautifulの中島さんと同じく、私もrice-addictを名乗っている通りの米好きである。稲作文化とともに継承されたM122を私も持っているのかどうか。

天皇陛下か皇太子・秋篠宮のどなたかにもやってほしいが無理だろうな。今話題になっている通り、天皇家は男系を保っているのだから、Y染色体の経路すなわち天皇家のルーツということになるはずだが。

こういうことを考えていると、分析結果が出るのがとても楽しみである。服やネクタイをもらうよりずっといい誕生日プレゼントになった。結果が出たらまたここで書きたい。

TOMMY FEBRUARY6(TOMMY FEBRUARY6)

Tommy february6

Tommy february6

前から手に入れたいと思っていたアルバム。最近これを一番よく聴いている。

Tommy february6the brilliant greenのボーカル川瀬智子の別プロジェクト。february6という名前は彼女の誕生日が2月6日であることからきているらしい。

こういう音楽を何とジャンルづけするのかよくわからないが、すこぶる気持ちいい。そして日本語と英語が交替で出てくる歌詞の心地よさ。日本語の歌詞というのは英語に比べ同じメロディで少ない内容しか歌えないなどのハンディがあるし、元が西洋音楽なので英語が本家という感覚はぬぐえないが、それがゆえにこうやって英語とミックスして(日本人にとっては)独特の雰囲気を出せる。逆に英語の歌にそれ以外の言語の歌詞をミックスしたものを英語圏の人が聴いても同じ楽しみは得られないだろう。

一番気に入っているのは「トミーフェブラッテ、マカロン。」という曲。せつない歌詞とメロディが彼女のボーカルとよく合っている。なんでこんな変なタイトルなのかよくわからないが。

Tommy february6としての活動を始めた時(2002年)は余興でちょっとだけやるのかと思っていたし、事実一度終わっているはずだが、また活動を始め、さらにTommy heavenly6という新キャラクターでも曲をリリースしている。the brilliant greenは2003年ごろから活動停止らしい。そのあたりの歴史はTommy library6プロフィールのページに詳しい。

Tommy february6の活動が続いているのはファンとしてうれしいことだが、本線であったはずのバンドを休止して、いかにも余興っぽいプロジェクトの方が続いているのは、ちょっとだけ座りの悪いものを感じる。これからもこっちをメインに続けていくのだろうか。あのメガネはずっとかけ続けるのか。

AEREO-PLAIN (JOHN HARTFORD)

Aereo

Aereo

桂枝雀師匠がよくこんなことを言っていた。「噺家が高座に上がって何もしゃべらずただニコニコして座ってる。それでお客さんもニコニコしてる。それが理想の落語なんですわ」。

私にとってジョン・ハートフォードは、その境地にかなり近いミュージシャンである。さすがに何もやらなくていいということはないが、とにかくバンジョーでもフィドルでもいいから弾きながら何か歌ってくれればいい。曲は何でもいい。

時山(岐阜)のブルーグラスフェスティバルに彼が来た時はまさにそんな感じだった。雨天用のフェス会場である体育館の中で、バンジョーフィドルで数十曲。どんな曲をやったか全然覚えていないが、こっちはただニコニコしていた。最後はみんなで輪になって延々踊った。

ただしこのアルバムは別である。とんがっている。ロックなブルーグラス。ニューグラスリバイバルに影響を与えたと言われるのもうなずける。実際、彼らが後に採用した"With a Vamp in the Middle"(この曲、歌もさることながら、EmのところでDの音を強調するフレーズを弾くバンジョーが特に耳に残る。普通Gの時に使うフレーズだと思うが)や"Steam Powered Aereo Plane"も入っている。他の曲もブルーグラスでロックしている。こんなアルバムを1971年に作っていたというのはすごい。

他のアルバムも何枚か持っているが、このアルバムと違ってほとんどはあまり曲の印象がない。どちらかというといい意味でだが。どれもなんか気持ちよく聴いて通り過ぎてしまう。

枝雀師匠もジョン・ハートフォードももうこの世にいない。CDを聴いたりビデオ映像を観たりしてニコニコするしかないのが残念である。

NHK受信料の怪(5) 受信料の目的

NHKの受信料の目的・意図について、以下の解説がある。

とても勉強になった。このエントリによると、NHK受信料というのはもともと、民法を含めたテレビ放送のためのインフラを広く日本全国に拡大することを意図して設定されたものであり、視聴の対価として請求されるものではない。以下は抜粋。

人口密集地で集めた受信料で、今まで電波の届かなかったところに送信用アンテナを設置し、電波の届くところに変えていきます。NHKの電波が届くようになれば、テレビを設置する人も出てくるでしょうから、民間放送局も経営が成り立つ地域に変わっていきます。その結果として民間放送局が設立されやすくなり、日本国中で多くの放送局の放送を見ることができるようになっていきます。また、NHKと民間放送局が同じ鉄塔を共用すれば、民間放送局の鉄塔の維持費が少なくなり、民間放送局が参入しやすくなる結果として多くの地域で民間放送を見ることができるようになるでしょう。
つまり、NHKにお金を払うことで、受信者は直接的にはNHKに払っているが、間接的に民間放送局も含めた送信施設を維持することに寄与すると考えられたわけです。

ここからは私の解釈だが、上記の考え方からすれば、例えばアナログ放送のラインを使ってBS1,2が観られるという場合には衛星カラー契約を締結する義務はないように思える。また、CATVでBSチャンネルを観ている場合にも衛星カラー契約の義務は発生しないと思われるが、CATVについては上記NHKカテゴリの中の「ケーブルテレビとNHK受信料」で書かれている通り、そもそもNHK受信料の対象にならないというのが妥当な解釈のようである。いずれにしても、BSチャンネルの番組を観られるから衛星カラー契約の受信料を払う、というものではない。とすると、「NHK受信料の怪(3) 誘導」でNHKの人が「公平な受信料負担のため、衛星カラー契約について前向きに御検討いただければと」と言ってきたのは変である。あるいは、正面切って請求できないから「前向きに御検討」などと言ってくるのかも。それでもやっぱりおかしいが。

NHK受信料の制度が今の時代に合っていないというのは前から言われていることだが、こうして考えてみるとますますそう思える。放送インフラを広く日本全国に拡大するという目的が、地上波のみならず衛星放送・CATV・インターネットが全国に広く普及している現代に全く整合していないからである。建設投資がとっくに回収できているのに高速料金をとっている高速道路と同じような感じがする。

現在私はNHK-BSを地上波アナログ(BS1,2)とCATV(BS1,2,hi)で観ることができるが、衛星放送向けアンテナを立てていないので、引き続きカラー契約の受信料のみを支払い、衛星カラー契約は結ばないことにしようと思う。先日もNHKから「衛星カラー契約のお願い」というハガキ(申込書を兼ねる)が来ていたが、放置している。ただし「NHK受信料の怪(2) CATV画面の表示」で書いた画面表示をNHKが復活させると言ってきたら(言ってこないと思うが)、まあ放送する側の意志なのでどうぞと言うかもしれない。

※なお、上で紹介したnonkiさんの各エントリ(私のこのブログのエントリもだが)の内容はあくまで放送法や受信規約の一解釈と見なされるべきものであり、これらに従って行動したときの責任は行動した人にあることに注意すべきである。

(了)